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コラム第3回 薬剤師となる
初代玄喜、二代金斎、三代目も金斎とつづき、医師の四代目は坦三(号は琴城)といいました。医術を当時江戸で屈指の名医といわれた尾台榕堂に学び、また漢学を幕府の儒官、林学斎のもとで修め、医業はもとより特に教育の方面にも力をつくしました。すなわち佐原に帰郷して父と医業を共にするる傍ら「修道塾」という漢学の塾を開いて、地元子弟の教育にあたったのです。塾生は数百人にのぼったといいます。明治維新後は佐原小学校創立当初(明治6年)の教師3人のうちの1人となり、次いで隣村の大戸小学校の初代校長をつとめ、さらには、当時小学校以上の学校が無かった佐原に中学校を建てようと計画し、私立中学「溯源(そげん)学舎」の創設を企図するに至りました。
ところが、「溯源学舎」が明治13年10月に認可となり、11月に晴れて開校式をあげるその直前に、坦三は歿しました。年わずかに38歳でありました。「溯源学舎」も幻におわり、何よりも後継ぎの欽一郎はまだ11歳でした。しかし、この「溯源学舎」の計画は、のちに父の遺志を継いだこの欽一郎らにより佐原町有志による公立中学校誘致の運動となって発展し、20年後の明治33年、旧制佐原中学すなわち現在の千葉県立佐原高等学校の創立となって実現するのであります。が、さて、問題は小川家の方であります。
一家の大きな柱を突然失い、老親はすでに隠居し、子供達は幼い。坦三の妻夏子は、幕末に領主津田家の代官として佐原を治めていた中安辰之進という武士の娘でありましたが、附近の子女に読書、裁縫などを教えながら幼児を育て、長男欽一郎を東京に遊学させました。夫の「過労死?」を目の当たりにした妻の、母としての思いからでしょうか、息子にさせたのは医師としてではなく薬舗主としての勉強でした。
明治18年薬舗開業試験合格、内務卿より免許状下付。同22年3月「薬剤師」としての効力を有し、同年6月薬剤師名簿に全国「第2号」を以て登録されました。つまり五代目の欽一郎は日本における薬剤師の「第1期生」といえるでしょう。薬局としての小川家がここに始まります。
薬局小川家の歩みにつきましては、また稿をかえて述べたいと思います。