コラム第2回 漢方を志す|千葉県香取市佐原の漢方薬局

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コラム第2回 漢方を志す

まず、自己紹介を兼ねて、漢方を志すに至った経歴など思いつくままに述べていきたいと思います。

小川家はもと武士でした。それも関ヶ原の戦に二千人の軍勢を率いて参戦したという武家であります。しかし西軍の敗戦により改易。すなわち領地没収と武士の身分剥奪であります。よって一族は離散し、みな諸国流浪の身となりましたが、当家の先祖は当時利根川の砂洲に大規模新田開拓が行われていた、この佐原地方に住みつき、ここで帰農したものと思われます。

それより数代を経て明和年間に玄喜(げんき)という者が出て、長男でありながら医者を志して家を出ました。これが当家の直接の先祖であります。玄喜は苦心の末医師となり、医院「小川好生館」を開業、後に江戸の本所に分院を持つに至り、また日本で初めて地図を作った伊能忠敬の主治医にもなりました。さて、その玄喜の子3人みな医師となった中で長男秀一(ひでかず)が大功をたてました。すなわち、ある藩の藩主の奥方様の不妊症を秀一が漢方で治療して見事お世継ぎが生まれたのです。東北地方の大藩でありましたその藩では、若殿様の奥方に徳川将軍家ゆかりのお姫様をお迎えしました。しかし、なかなかお世継ぎに恵まれず、姫様は遂に秀一を召して診察を依頼されたのです。藩にはそれこそ錚々たる御典医たちもおられたでありましょうが、一介の町医者にすぎなかった秀一にこのような依頼が下り、お姫様の脈をとるという事など、そもそも大変異例なことでした。

秀一は謹んで拝診し、漢方薬を処方したところ、日ならずして姫様はご懐妊になり、やがて月満ちて「まるまる太った男の子」を出産されました。藩公は事の外お喜びになり、秀一を召して褒美に土地をやろうと仰せられました。ところが秀一は「私は医者ですから土地はいりません」と申し上げます。「ならば名前をやろう。姫の名にちなんで金斎と名乗るがよい」(お姫様は「金姫」また「欽姫」ともいった)という事で、以後秀一は「小川金斎」と名乗り、ますます医業に精進しました。当時の年齢を推定しますと姫様20歳、秀一25歳くらいであります。

この話は江戸市中でもかなり有名になったようで、次のようなエピソードも残されております。ある時幕府の〇〇奉行△△筑後守の行列の前を馬で横切る者がある。供侍が色をなして駆け寄ると「医師小川金斎、患家往診の途次である。」と言って下馬せずそのまま通り過ぎたが、供侍たちは制止することが出来なかったと。こちらの話は秀一の義弟で養子、つまり金斎の名を継いだ三代目の急患往診のときの話ですが、「小川金斎」の名が、このように通用したという逸話でもあります。今でも地元の古い人の中には当薬局のことを「キンセー」「オガワキンセー」とまるで屋号のように呼ぶ人がおられます。(最近は少なくなりましたが…)

幼い頃、父からこれらの話を聞いた時の情景を今でもはっきりと思い出します。これが、私が漢方を志したきっかけであります。

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